ギュスターヴーモローは1826年4月6日、パリ市の建築技官ルイーモローを父に、ピアノを得意とするポーリーヌを母に、裕福で教養の高い家庭に生まれる。一年後に妹が生まれたが、13歳で早世。最愛の妹の死は、その後の画家に、女性を一角獣)のかたわらにいる処女のようにみるかと思えば、反対にサロメのような妖婦としてみたりするような、ゆがんだ女性観を植えっけたともいわれる。
モローは体が弱かったこともあり、8歳の頃から好んでデッサンを描きはしめた。また、父の蔵書であるギリシャ・ローマ神話などの古典文学、挿絵入り本、版画集などにも親しむ。
父は、モローがバカロレア(大学入学資格)取得試験に合格したうえで美術の道に進むことを許した。こうして。1846年、20歳でエコールーデーボザール{官立美術学校}に人学し、伝統的な新古典主義の画家に学ぶ。
だが、モローがまず心酔したのは、個性や想像力を重視するロマン主義の総帥ウジェーヌ・ドラクロワであり、ついで、新古典主義から出発しながらドラクロワに接近したロマン主義的な画家テオドール・シャセリオーだった。
ローマへの川費留学を賭けたローマ賞コンクールに、二度にわたって落ちたのを期に、1850年にエコール・デ・ボザールを退学した。
その後自宅に引きこもり制作活動に専念し国家にも買い上げてもらったが父のコネによるところが大きいと言われている。
1857年、心機一転イタリアへ画家修業のため私費留学し2年間学ぶが時代は写実主義へと変貌し自身の作風は世間から見ると時代遅れのものとなっていった。
しかし、1876年、50歳になった彼は満を持して「ヘロデ王の前で踊るサロメ」や「出現」を発表し前衛的な作品として熱烈なファンを獲得し名声を得た。
もともと資産家で裕福であったモローは絵を売る必要がなく作品制作に集中できたことが成功の理由の一つでもあった。
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キマイラ 1867年 |
ゼウスとエウロペ 1868年 |
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オイディプスとスフィンクス 1864年 |
オルフェウス 1865年 |
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