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モネと睡蓮。

ギャラリーアオキ

ジヴェルニーとモネの睡蓮。

1883年、モネがジヴェルニーで借りたのは、丘のふもとに立つ鎧戸のついた細長いピンクの邸宅だった。
周囲には8000uほどの果樹園が穏やかな斜面に広がり、狭い道路と向かい合っていて、道の向こう側には小川のせせらぎが望めた。

引っ越してきた時、庭は美しくはあったがモネを魅了するものではなかった。
モネ一家が引っ越してきたのは晩春だったが、すぐに裏庭を野菜園に改造し、家や花壇に手を加え始めた。
アーチを作り、つるバラやアメリカヅタをはわせ、鎧戸や玄関も緑に塗り替えた。
果樹園の果実の木々は掘り起こされ芝生が植えられた。所々に桜や椿が植えられ、鮮やかな彩りの草花が緑を形どった。
花壇も整備されこぎれいな砂利道で区分された。

こうして毎年庭の整備が進み世界中の花も集められた。日本からも友人である美術収集家の黒木夫妻からシャクヤクやユリの球根が贈られた。
モネは「庭造りほど楽しいことは他にない、自分で耕し、種をまき、移植する。夕方には子供たちが水をまいてくれる」といっている。
そして「絵を描くことと庭造りを除いたら、私は全く無能な人間だ」ともいっている。

1893年、庭に面し、道路を隔てた土地を買足し以前からあった小さな池を大きな池にする構想を立てた。そのためにはリュ川から水を引き、それがリュ川に戻る必要があった。
当時のフランスでは農業に使われている川の水の管理には厳しく、農民もモネの考えには反対だった。モネは様々な条件をのみ、ようやく川の水を引く許可を得て完成した「水の庭」は「花の庭」とは全く異なった様相を呈した。
静かで落ち着いた庭園となり池に浮かぶ睡蓮がエキゾチックな雰囲気を漂わせていた。
日本の風物にも傾倒していたモネは、池に太鼓橋を架け、桜の木や竹も植えた。
1901年には池をさらに広げ現在の庭園となっている。


ジヴェルニーのモネの庭 全体図

ジベルニー モネの庭と睡蓮
 

「ジヴェルニーのモネの庭にて」
左から黒木夫人、モネ、リリー・バトラー、妻アリス、クレマンソー

  左の黒木竹子は黒木三次の妻で大蔵省の依頼により金融調査のためにパリに在住していたおりモネの作品に惹かれ何度かジヴェルニーを訪れている。
また、竹子は松方コレクションで有名な松方幸次郎の姪にあたり幸次郎をモネに紹介し多くの作品を購入している。現在では国立西洋美術館にてその多くを所蔵し展示している。
 
 

ジョルジュ・クレマンソーと庭を歩くモネ

モネの家 
モネが43年間住んだ家
 
 モネの庭
家の玄関から正面の庭を見た眺め
奥の林に睡蓮の池がある。
 睡蓮の池
 モネは日本の浮世絵からヒントに太鼓橋を架けた。
橋は藤の花で飾られている。
睡蓮の池 
池の周囲に作られた遊歩道
四季を通じて様々な花が咲き静かで心和む庭。 
モネの庭で描かれた作品 
 自然を映し出す水面の宇宙
 モネはこのジヴェルニーの庭で睡蓮の絵を何百回カンヴァスに描きだしたことだろう。
特に最後の20年間はひたすら「睡蓮」を描いた。
モネにとっては睡蓮の池に反射されて映し出される風景が小さな宇宙にだったに違いない。
季節とともに移り行く水の色、雲の形、風の香り。
一日として、いや一時間として同じ風景はない水面の世界。
次の瞬間には変わってしまう一瞬の姿の風景をカンヴァスの上に残したいと晩年になっても印象主義を貫き通したモネが描いた「睡蓮」。
今も作品の中から100年前のジヴェルニーの風が薫ってくる。
 

「雲」
1903年制作 個人蔵
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「睡蓮の池と日本の橋」
1899年制作 プリンストン大学美術館
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「睡蓮・水の風景」
1905年制作
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「花咲くアーチ」
1913年制作 フェニックス美術館
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「モネの庭・アイリス」
1900年制作 オルセー美術館
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オランジュリー美術館 

「睡蓮、朝」
1914年制作 オランジェリー美術館
 パリ オランジュリー美術館の「睡蓮の部屋」は圧巻である。
モネの「睡蓮」を飾るためだけに作られた楕円形の二つ部屋に巨大な作品が壁一面に展示されている。
作品8点による連作である。
自身が作り上げた「睡蓮の池」に魅了され、晩年、精魂こめて描き上げた大作だ。
すでに二人目の妻アリスは世を去り、息子ジャンもまた先立ってしまった。自身は白内障を患い、手術で回復したとはいえ苦難の中にあった。
そうした逆境の中、睡蓮の展示を計画し、大作に挑戦したモネの「睡蓮」に対する強い執着心が筆に神の力を与えたといえる。
しかし、モネ自身もまた自ら計画し夢に見たこの美術館での展示には間に合わず「睡蓮の部屋」が完成する1年前に他界した。
享年86歳であった。