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世界の名画、炎の画家、フィンセント・ファン・ゴッホの世界。

ギャラリーアオキ

炎の画家 ゴッホ。1853〜1890

 ヴィンセント・フアン・ゴッホは1853年3月30日にオランダ南部のズンデルトに生まれる。祖父、父共に牧師だった。性格は激しく、家族を含め他人との交流に難を抱えていた。
 ゴッホは1869年から美術商として成功していた伯父のダービル商会に勤め、熱心に働く。また1872年からは兄弟のなかでも唯一気の合うテオドルスと文通を始める。この文通は何度か途切れるが、20年に亘って続けられる。
商会のロンドンやパリの支店に勤めるが、失恋により美術商への熱意を失う。あまりに悪い勤務態度の為、1876年に商会を退職させられる。
ゴッホは牧師を目指し貧しい人々のために、自らも貧民のような身形で献身的に活動を行うものの、あまりにみすぼらしい有様が牧師らしくないとされ、1879年に伝道師の仮免許を剥奪される。
1880年に画家となる事を決心し、ブリュッセルでデッサンの勉強を始める。1881年に実家に戻り、両親と暮らし始める。
自宅に画室を作り、27歳で画家となる。義理の従兄弟にあたる画家アントン・モーヴにも指導を受ける。
1888年にポール・ゴーギャンと南フランスのアルルで共同生活をする(他に十数人の画家の仲間達を招待してしいたが、来たのはゴーギャンだけだった)が不和となり、ゴーギャンに「自画像の耳の形がおかしい」と言われると、ゴッホは自らの左の耳粂(じだ)を切り取り、女友達に送り付ける等奇行が目立ち、自らサン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院に入院する。
1890年7月27日にパリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズで猟銃の弾を腹部に受け、2日後に死亡した。37歳いという短い生涯であった。ゴッホの死は−般には自殺とされているが、自殺するには難しい銃身の長い猟銃を用いた事や、右利きにもかかわらず左脇腹から垂直に内臓を貫いている事から、他殺とする説もある。

 世界の名画、ギャラリーアオキ  
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 ゴッホ ひまわり  ゴッホ 夜のカフェテラス
ひまわり
1888年
91x72cm 
夜のカフェ・テラス
1888年
81x65.5cm 
 ゴッホ オーヴェールの協会  ゴッホ アルルの跳ね橋
 オーヴェールの教会
1890年
94x74cm
アルルの跳ね橋
1888年
54x65cm 
  アルルの黄色い家  
アルルのゴッホの家(黄色い家)
1888年
72x92cm 
黄色い麦畑と糸杉 
1889年
72.5x91.5cm
 ゴッホ 夜のカフェ  ゴッホ アイリス
夜のカフェ
1888年
72.4x92.1cm 
 アイリス
1889年
71x93cm
 ゴッホ 種をまく人  ゴッホ オーヴェールの景色
種をまく人
1888年
64x80.5cm 
 オーヴェールの景色
1890年
50x52.5cm
 ゴッホ 花瓶のバラ  ゴッホ バラ
花瓶のバラ
1890年
93x74cm
 
ばら
1889年
33x41.3cm 
 ゴッホ ゴッホの椅子  ゴッホ 桃の木
 ゴッホの椅子
1888年
92.5x73.5cm
 桃ノ木
1888年
81x60cm
 ゴッホ アルジェリアの土民兵  ゴッホ ゴッホの寝室
 アルジェリアの土民兵
1888年
81x65cm
ゴッホの寝室
1889年
200.5x201cm 
   
 ゴッホ 自画像  ゴッホ ジャガイモを食べる人々
 包帯をしてパイプをくわえた自画像
1889年
51x45cm
 ジャガイモを食べる人々
1885年
81.5x114.5cm
 ゴッホ ラクローの収穫風景  ゴッホ 星月夜
ラ・クローの収穫
1888年
73x92cm 
星月夜
1889年
73.7x92.1cm 
ゴッホ ローヌ川の星月夜   ゴッホ 花瓶の花とアザミ
ローヌ川の星月夜
1888年
72.5x92cm 
 花瓶の花とあざみ
1890年
40.8x33.6cm
 ゴッホ 糸杉と星の見える道  ゴッホ アルルの女
糸杉と星の見える道
1890年
90.6x72cm 
アルルの女(ジヌー夫人)
1890年
65x49cm 
   
ジプシーのキャンプとキャラバン
1888年 
花咲くアーモンドの木
1890年 
   
 桑の木  オヴェールの家
1890年
   
丘を抜ける二本のポプラ
1889年 
糸杉
1889年 
 
 ドービニーの庭
1890年
53.2x103.5
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