イアタリア・ルネサンス

誰もが知っている「ルネサンス」という言葉は「再生」を意味するフランス語で今日でも「何とかルネサンス」などとよく使われる言葉ですが、本来の使われ方を私たちはイタリア絵画の巨匠ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロなどの作品を通して「ルネサンス」という時代が革命的「美術芸術」の時代であったという大まかな概念で理解してます。「ルネサンス」という言葉は19世紀にフランスで用いられた言葉で当時のイタリアではその時代を意味する特別な表現はありませんでした。

しかし、当時の芸術家の多くは「今までとは違う大きな芸術の渦の中」にいると感じていました。1492年、人文学者のマルシリオ・フィッチーノは友人への手紙の中で新時代の興奮を次のように伝えています。「今世紀は、あたかも黄金時代のごとく、ほとんど消滅しかけていた自由学芸に再び光を当てた。詩、絵画、彫刻、建築、音楽などすべてがフィレンツェでよみがえった。我々は古代人によって栄誉を与えられたが長い間忘れ去られていた。それが今、再び成し遂げられようとしている」

15世紀のイタリアでは各地で戦争が頻繁に勃発したにも関わらず市民生活は平穏で絵画や彫刻などには教会や宮廷、富裕層などがパトロンとなり注文が拡大しました。芸術家には様々な能力が求められ家具や宮廷の内装、劇場の装飾、婚礼などの式典一式、挙句の果てには軍事関連器具のデザインまで注文が入り、フィレンツェやヴェネチアではコンクールまで開かれたといわれています。

東方三博士の旅
ベノッツオ・ゴッツオ「東方三博士の旅」
1459年 フレスコ画

フィレンツェでは東方三博士の物語は人気が高く,東方三博士の礼拝や旅を描いた作品には実際の行列の模様を思い起こさせるような描写が見られました。
本作品では,東方三博士の一行がアルノ川の渓谷をうねるように行進していて、そこには色とりどりの花々が咲き,風変わりな木々が生え,幻想的な岩山が広がっています。先頭にたって一行を導いているのばイル・マニフィコ(豪華公)″と呼ばれたロレンツォ・デ・メディチ,彼の後方の左側にはその祖父コジモが,右側には父ピエロが描かれています(いずれの肖像も死後に描かれたもの)。人文主義者たちが”名声″という古典的な観念をよみがえらせた結果,注文主の像を描いた肖像画や,彼らの特性を標語や紋章という形にしたメダルが流行するようになりました。
この作品でゴッツォリは,共和国フィレンツェにおける,実質的な君主としてのメディチ家の地位を形象化しています。

ドメニコ・ギルランダイオ 「ジョヴァンナ・トルナヴォーニの肖像」
1488年 テンペラ 板 77x49cm

 ジョヴァンナ・デ`リ・アルビッツィは,1486年6月に18歳でロレンツォ・トルナブオーニと結婚したが,そのわずか2年後,出産が原因で死亡しています。
彼女の祈祷書の上にピンで止められた銘には感動的な言葉が記されています。「ああ,芸術よ。もしもおまえが彼女の特性や内面性を再現することができるなら,この世にこれにまさる絵画はないだろう」。
この銘記から,本肖像画は彼女の死後に描かれたことがわかります。
 ロレンツォ・トルナブオーニの父ジョヴァンニは,1485年,ギルランダイオに対し,フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴ`エッラ聖堂後陣に壁画連作を描くよう依頼しました。この連作に関する契約には,ジョヴァンニが絵の内容にまで口をはさむ権利があると記されて、ギルランダイオは,「様々なタイプや種類の人物,建物,城,町,山,丘,植物,岩,衣装,動物,鳥,獣」を描くことを了承しました。そこにはトルナブオーニ家の肖像と,結婚によって彼らの親戚となったメデイチ家の肖像が描き込まれ宗教的な主題は影が薄くなってしまっています。
ジョヴァンナは,壁画連作中の《聖母のエリサベツ訪問》に全身で表されていますが,この小さな記念肖像画は,おそらく彼女の死後にその像を手本にして描かれたのであろうと考えられています。

ラファエロ
ラファエロ「聖母子と洗礼者聖ヨハネとバリの聖ニコラウス」
1505年 油彩 板 209.6x14806cm

この祭壇画は,ペルナルディーノ・アンシデイの依頼で,ペルージアのサン・フイオレンツォ・デイ・セルヴイ聖堂内にある二コラウス礼拝堂を飾るために描かれたものですが,ここには師ペルジーノの影響をはっきりと示しています。
また、幼児キリストと成人の洗礼者聖ヨハネを並置して描くことは,ルネサンス美術では珍しくありません。
洗礼者聖ヨハネは珍しいクリスタルの十字架をもち,聖二コラウスは小アジアの町ミュラの司教の装いをしており、キリストは聖母のひざに腰かけていますが,二コラウスもまた早熟の子で,生まれたばかりで立ちあがり,神をたたえたといいます。
二コラウスの足下の3つの金の玉は,娘たちを立派に嫁がせる余裕がなかった男のために,彼が家の窓から投げ与えた持参金を表しています(二コラウスが守護聖人である質屋業者は,その標章に3つの黄金の王を描きこんだ)。
 ラファエロのこの絵では,聖母のマントの縁にローマ数字でMDV(1505)と年記が記されていますが,様式的には師のペルジーノのそれに近い。特に洗礼者聖ヨハネのやや虚ろな表情にはそれが顕著である。
建築形態の明快さはローマの壁画などの彼の後期作品を思わせますが,わずか3年後にヴァティカン宮の゛署名の間″で発揮されることになる生き生きとした物語描写はここにはほとんど見られません。

イタリアルネサンス作品を観る(西洋絵画美術館)

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