鎖国中の江戸時代、19世紀中ごろ唯一貿易を行っていたオランダには日本の陶磁器や様々な工芸品が渡っていった。その中には浮世絵も多く混ざっていたはずなのだがオランダ絵画に後のパリで広がったようなジャポニズムは発生しなかった。いったいどうしてだろう?
当時のオランダ人画家や美術関係者にとって日本の浮世絵は評価に値しなかったのだろうか。少し時代はさかのぼるがオランダ絵画と言えばその人材は豊富だ。レンブラント、フェルメール、ハルス、ロイスダールなど超有名画家を生み出した絵画芸術の国だ。それなのに見向きもされなかった。
日本の浮世絵が見向きもされなかったのは「絵画芸術」に関するの概念の違いではないだろうか、絵画にリアルな写実性を求めるヨーロッパ的な概念から浮世絵を見ると、とても、平面的でのっぺりとしていて写実性に乏しく、極端に強調された構図は、彼らにとってとても受け入れられないいわゆる「らくがき」のように見えたのかもしれない。
そもそも、浮世絵がオランダに渡るときの状態が問題だ。なんと、陶磁器の包み紙、長旅で壊れないようクッション材としてぐしゃぐしゃにされてオランダについたのだから、これを絵画芸術として正当に評価しろという方が無理かもしれない。
パリで「印象派」が話題になる19世紀末までオランダ絵画界に大きな変革の波は訪れなかった。「印象主義」が世界の絵画界を席巻しエコールドパリの時代に入ると流石にオランダでも新しい絵画のスタイルが模索され始めたが、ここでもジャポニズムらしきものは見当たらないようだ。
しかし、江戸時代の永きにわたりオランダだけと交流してきた日本なのだからなにがしかの文化的影響を及ぼしていたのではないかと考える。
フェルメールが生まれ育ったオランダ西部の北海に面した都市デルフトは17世紀から陶器の制作が盛んな町として有名だ。この街で作られる陶器にジャポニズムの片りんを観ることが出来る。
上の壺は、いわゆる「デルフト焼き」だが日本の伊万里焼を模して造られたもので日本的な「花鳥風月」の模様が描かれている。この時代、日本から多くの工芸品がオランダに渡っており特に伊万里は評価も高く高額で取引されていた。
デルフト陶器も18世紀中頃までは芸術的価値も高く高額で取引されていたが、その後はイギリスの磁器におされ衰退の一途をたどることになる。
結局、オランダでは19世紀後半のパリの「ジャポニズム」のような大きな日本ブームは起きなかったが、皮肉なことにパリの「ジャポニズム」の最大の功労者はオランダ人のヴィンセント・ファン・ゴッホなのである。